ついに最終出勤!進路決定から退職までを振り返る①

ブログ(活動・思想)

冬季長期休暇!そして年明けから有給消化に入ります

上の見出しの通り、業務のための出勤はほぼ終わった状態になった。
今回の退職は多くの人のなかでも珍しい?円満な退職であると信じているが、それは後になって確定される事項だろう。

さて、本記事は一種の「退職エントリー」のようなものになるのだろうか?
私の会社生活…というより、入社から退職までの概要をこの記事に書き留めておきたいと思う。
となると、退職エントリーというより「自身の棚卸し」に近いものだ。よって、良いところも悪いところもまとめて残しておきたい。どちらも含めて私を構成する要素だからだ。

まずは2015年5月の入社前からの流れから辿ってみたい。

高校~大学学部時代

2007年、神奈川県立生田高校を卒業した僕は厚木市にある東京工芸大学の工学部に進学した。
理由は2つ。

  1. ゲルマニウムを用いた発光ダイオードの研究をしたかったから
  2. ペーパーテストが「無理」だったから

理由1は、要するに「光りモノ」を研究したかったからだ。
高校2年生くらいの当時、僕はロックマンに出てくるDr.ワイリーのような科学技術で世界を支配するようなマッド・サイエンティストに憧れていた。そこで、「世界を支配するためにはどのような研究をすれば良いのだろうか?」と考えるようになった。

出した答えは『この世にあふれている「空気(酸素・窒素・二酸化炭素)」や「光」を自在にコントロールできれば、時代を制覇できる!』というもので、そこから派生して、「光るモノって綺麗で見ていて楽しいよね」という程度の理由で発光体の研究へと進むことにしたのだ。

理由2は単純にペーパーテストが苦手だったからだ。なんと高校の化学は成績が悪く、10段階で「3や4」だった記憶がある。ただ、暗記が多く、例えば「酢酸」は慣用名で系統名は「エタン酸」なのだが、これをメタノールで脱水縮合してやると慣用名で「酢酸メチル」になるのだが、系統名だと「エタン酸メチル」なのだ。

暗記が苦手な僕は膨大な化学物質を暗記する頭脳は無く、後者で覚えるしかなかった(「吉草酸」なんてイチイチ覚えていられるか?)。「高校の勉強や大学受験では暗記が重要視されるが、大学以降はそうではない」という認識を持っていた私は(ここから一人称を変えさせていただく)大学に行けさえすればどうにかなる。と思っていた。

そこで指定校推薦という制度を使ってペーパーテスト無しで大学に行くこととした(ただ、東京工芸大学はそもそもペーパーテストが簡単だったようだが)。

大学学部1~2年

奨学金とバイトで学費は賄っていた。B2まで親からの援助はほとんどなかったと思う。成績は上から5番目以内にはいたと思われる。

問題はそのB2で、私は久地駅前のDPE店「パレットプラザ」で働いてた。初めてのバイトで苦労したことを覚えているし、疲れで帰宅後に玄関やリビングで突っ伏して親父に怒られていたことを思い出す。今なら言えるが、体力的にも精神的にも(私には)大変な仕事だった。

時給も高くなく、当時800~820円くらいだった。高校3年からしていたバイトだったが、そろそろ別の仕事に就きたくなった。結果、津田山駅近くのマックスバリュの寿司・惣菜コーナーで働くことになった。これが大きな転機になった。

パレットプラザは20時ごろに店が閉まる。22時には寝ていた私にはギリギリの時間だ。一方、マックスバリュは22時までの仕事だった。1日最長で5時間45分の勤務で休憩時間は15分。22時勤務終了。晩ごはんはその後だ。これが非常に合わなかった。

自転車で帰宅後、半額になった寿司を食べ、気がつくと24時になっている。

ここで一つ問いたい。例えば皆さんは19時に晩飯を食べ、20時に寝ることはできるだろうか?
おそらくほとんどの人ができないと思う。早くとも2~3時間程度経たないと就寝していないはずだ。

では23~24時に晩飯を食べるとどうなるだろうか?そう、就寝は翌日2~3時になる。厚木の大学には電車と自転車で1時間半かかるので1限の9時に間に合うためには7時半に家を出る必要がある。
となると睡眠は3~4時間。これが私にはコレは合わなかった。

めでたく体調が崩れ、大学の保健室的な場所に通うようになり、その後登戸のメンタルクリニックを受診した。これらを理由にバイトを辞め、奨学金は月5万から月10万円に変更した。

以後、年末年始を除きバイトは控えた。

大学学部3~4年

体調を取り戻しつつ勉強に励んだ。どうも企業で研究開発(マッド・サイエンティスト)職に就くには大学院、特に国立大学を出ているほうが就職しやすいという情報をネットから入手していた私はそのまま研究室の先生に聞いたところ、「そうだ」との回答。私の進路希望は国立大学大学院となった。

それ以前に、「大学で優秀な成績であれば大学院に筆記試験パスで行けるのでは?」と考えていた私は成績には気を遣っていた。結果、横浜国立大学と埼玉大学を先生に紹介されたのだ。

試験を受けた結果、大学院に進学できた。

学生生活はと言うと、とにかく頑張っていた。大学に住んでいた、と言えるぐらいだ。

家に帰るのは土日くらいだったときもある。通学時間が長いとそれだけ時間を取られる。移動時間の除去は研究時間の確保につながる。激安スーパーが(少し距離はあるが)あったことも、泊まり込みに拍車をかける要素だったと思う。研究室には冷蔵庫とレンジと炊飯器があったので、それで作れるものはなんでも作っていた。炊飯器でカレーを作ったこともある。研究棟にはシャワー室があったし、ムダに広い研究室には折りたたみベッドがあり、毎日のように使わせてもらっていた。この経験があったので、東日本大震災のときは「一人炊き出し」ができて、とても役立てた。

そんな生活を送っていたのだが、卒論発表が無事終わり大学院に進学したのだが、そこでまた転機が訪れた。

大学院1~2年(休学前)

不穏の見出しだが、事実である。順を追って説明する。

大学院進学後、研究室生活が始まった。大学院というのは学部ほどではないが単位を取らないと卒業できない。セオリーとして、1年で必要な単位の殆どを取得し、2年は研究に没頭するというものがあるが、私もご多分に漏れず踏襲した。
その結果、体調を崩した。そもそも研究室生活がハードななか、通学にかかる時間は相変わらず1時間半以上かかったのだが、それより辛かったのは泊まり込みしづらかったことだ。

学部までは一人で自由に夜を過ごせた。しかし院からは泊まり込む人は私一人ではなかった。
しかも、ベッドがあるわけでもなく、持ち込みの寝袋とマットで非常階段や屋上の扉前の踊り場で寝たりもした。もちろんプライバシーもへったくれもない。

心身ともに疲弊していた私はまたもや保健室とメンタルクリニックのお世話になった。
色々あったが、大学院2年生の春夏ごろだろうか?メンタルクリニックの証明を提出し、休学に入った。

復学~卒業

このあたりの事は過去、旧ブログで語ってきたと思うので割愛するが、結果だけお伝えすると、「出向」という形で別の研究室に入り、一年で新規研究テーマで結果を出し、卒業できた。

就職活動は少ししていたが、決まらずに中断し、まず卒業することを目標とした。

修士論文は最終的に3徹くらいして書き上げた。叔母さん(と言うと怒られるのだが、血縁的には叔母さんで間違いない)の家でお世話になりながら、なんとか卒業できた。修論の受理後、多摩川の河口まで日の出を見に行ったことを覚えている(奇しくもその日が上村くんの事件があった日でたまたま職質されたのだが)。

就活。私は就活に疲弊していた。面接における化かし合いのようなやり取りに疲弊していた。
無理だ。自分を良くするように見えるようにアピールすることはできない。
良いも悪いも私自身なのだ。どちらも出す他、選択肢はない。

そんな就活を望み、溝の口のハローワークに通うようになった。競争者の少ない場所で戦うほうが生存率は高いと見込んだからだ(所謂リクナビマイナビは私にとって不毛だった)。

就活

ここまでの人生経験でわかったのは

  1. 体力仕事は向かない
  2. 時間に追われる仕事は向かない
  3. ある程度自由と裁量のある仕事が望ましい
  4. 研究開発の仕事しか長続きしない

という適正を私が持っているということだ。

ハローワークでは「有機合成」「研究開発」などで検索した結果、日本全国で6件ほどヒットした。

そのうちの1件が福井県坂井市にある「シプロ化成」であった。

・・・とここまででかなり長くなってしまった。この後はめでたく入社に至ったワケだが、語りたかった退職エントリーについては次回に回したい。

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